第3話Night and Day』 scene 3「うぁ~すごい人」午後2時。 揺は会場の雰囲気を早めに味わいたいなどというちょっとした軽い気持ちから4時間も前にドーム前に到着していた。 朝から近所の大工さんに頼んでドアの建てつけを直したり最新式の鍵をとりつけてもらったりでバタバタしていて朝食もろくに食べていなかった彼女はウニの誘いを断ったことを少し後悔していた。 それは夕べ食事を一緒にしたときのこと。 「ねえ、オンニ。明日のお昼、スタッフの人が美味しい日本食食べに連れてってくれるっていうんだけど一緒に行かない?」 「そうね・・・。ウニちゃんいっぱいご馳走してもらってきて。私はちょっとやりたいこともあるし。ほら、私『日陰の身』だから。」 そういうと揺は悪戯っぽく笑った。 「やだ。オンニ。そんなこというとオッパが怒るわよ。結構気にしてるんだから。オンニに辛い思いさせてるんじゃないかって。」 「ごめんごめん。冗談よ冗談。そんなこと思ってないからオッパには内緒よ。」 (なんだ。あの人まだ気にしてたんだ。・・) ウニの言葉を聞き揺は心配している彼のことを心配していた。 「わかってる。でも、オンニ。やりたいことって何?」 「ん?・・・マーケットリサーチ。」 「?」揺は不思議そうな顔をするウニににっこりと笑いかけた。 (あの時に一緒に行くって返事してたら今頃豪華和食懐石だったかしら。)そんなことを考えながら揺は生唾を飲み込んだ。 「とりあえず・・・・あ、パンフレットよね。」もう今日は一ファンに徹すると決めていた揺はもちろん売り場の長蛇の列に並ぶべく売り場に向かった。 「えっ、ここが最後尾なの?」まだ2時だというのに売り場は予想以上の長蛇の列だった。呆然と見つめているとドームのビル風で飛ばされてきた帽子が揺の目の前を舞った。 風に舞った帽子はずいぶん離れたところを歩いていた一人の浮浪者らしき男の足元に落ちた。 「ああ・・・・」反射的に帽子を追いかけてきた揺はちょっとひるんだ。赤い服を着たその男は帽子を手に取るとチラッと揺を見た後、視線を落としたままそれを揺に差し出した。 「はい」 「あ・・・あありがとう」何だか不思議な気持ちがした。 帽子の持ち主が遠くから駆け寄ってきた。 「あ、ありがとうございます。急に風に飛ばされちゃって。助かりました。ごめんなさい。もしかして列に並んでいらしたんじゃありません?」 「あ、いいんです。別に急ぎませんからまた並びます。じゃ、お気をつけて。」 揺はそういってにっこり笑い帽子を手渡すとペコンとお辞儀をした。 「あの・・パンフレットだったらひとつ余ってますけどお譲りしましょうか。」 「えっ?」 「いや~。これも何かのご縁。きっと彼がめぐり合わせてくれた一期一会ですね。」 「ええ、並ばないでパンフレットが買えましたし、皆さんとお近づきにもなれましたし 美味しいとんかつ定食まで食べられて彼に感謝感謝です。」 揺は嬉しそうにかつを口に運びながら言った。 「皆さんはどこで知り合われたんですか?」と揺は尋ねた。 ここはドームに程近い和食レストラン。 帽子を拾った揺は帽子の主のよし子に誘われて昼食を共にしていた。 よし子の友人の睦江とかなこも含めての4人でのファンの集いといったところ。 「それがね~。本当はもう一人ご一緒するはずだったんですよ。ほら、さっきパンフお譲りしたでしょ。あれは彼女の分だったんですけどね。」 「え、良かったんですか?頂いちゃって。」揺は心配そうに訊ねた。 「うん。それは大丈夫。急用で開演ギリギリになるって連絡が来てパンフは自分で何とかするから精算できないと迷惑がかかるから誰かに売ってって言われてるから。そうそう。そのお友達haruさんっていうんですけどね。あ、これハンドルネームね。その人のブログで知り合ったんです。私とかなこさんは。」よし子はそう話すとお茶を一口飲んだ。 「で、私はよし子さんに羽田からのバスでの中で偶然声をかけていただいて。」と睦江。 「そしたら偶然、私の家と睦江さんのお宅が北海道でお近くだってわかってね。」とかなこ。 それで、「これも彼がプレゼントしてくれた縁よね~」って盛り上がっていたわけです。 三人は声を合わせようとするわけでもないのに妙に綺麗にはもってそういった。 「そうなんですか。それはすごい縁ですね。本当に彼に感謝ですね。」揺は何だか彼が感謝されているのが無性に嬉しくてにやけていた。 「そう。貴方に会ったのも」そういうとよし子は揺に微笑みかけた。 「ところで揺さんっておっしゃいましたっけ。彼のファンになったのはいつごろからなんですか?」睦江が訊ねた。 「えっとですね。去年の秋くらいですね。」 「それって何かとっても中途半端だけど・・・何がきっかけで」と不思議そうなよし子。 「きっかけは・・・ですね。」まさか本人に会うまで知らなかったなんていうわけにいかないし。揺はどう答えるか困っていた。 「そう。友達の紹介で・・・みたんです。」 「何を」と興味津々のかなこ。 「えっと・・・美しき日々」 「あ~~~~。やっぱりねぇ~~」三人は口を揃えたように言った。 「そういうひと多いんですよ。『私は韓流なんか興味ないわっ!』って言っててミンチョル観てズッポリミンチョル沼ってありがちよねぇ~」 「そうそう。私もそうなんですよ。初めはビョンホンって全然好みじゃなくて有り得ないと思ってたのにすっかり今は夢中で。」と睦江がちょっと興奮気味に言った。 「そういえばharuさんも好みじゃないって言ってたわね。」よし子は思い出したように言った。「いったい彼は何者なのかしらね~。あの演技がね。もういいのよね。」 その後も彼の作品談義に花が咲いた。 そして話題は新しい写真集の話に移っていた。 「しかし、よく洩れなかったですよね。写真集撮影してること。」とよし子。 「そうなんですよ。睦江さん、知ってました?あの雪の撮影場所、『札幌芸術の森』なんだって。」興奮気味にかなこが言った。 「え~やっぱり本当だったんですかぁ~。あれ、2月の下旬だったですかね。何だかラーメン屋さん貸し切ってラーメン食べてたとかちょこちょこ聞こえてたんだけど、どうして私に一言言ってくれないの~~」熱く話す睦江がとてもチャーミングで揺はふと笑った。 2月下旬といえば・・・私が彼を強引にパリに呼び出した頃だろうか。そんなに忙しいのに無理に付き合ってくれたんだと思うと彼に対する申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。しかし、写真集出すなんて・・・おくびにも出さなかった彼がちょっと憎らしい揺だった。 「写真集、期待できそうですね。」イベントのパンフに載った一部分の写真がとてもいい仕上がりに思えた揺は感慨深げにそうつぶやいた。 その後もよく観に行くブログの話をしたり翌日の予定について話したりして場は盛り上がりいつしか開場時刻になっていた。 「そろそろ行きましょうか」 揺はドーム前でよし子たちに別れを告げ席に向かった。 「えっと、Aブロックの10の・・・あ、ここだ。」 ドームに入場するにも異常に時間がかかったそれぐらいすごい人だった。 やっとの思いで席につく。 よし子の言ったとおり本当に前のいい席だった。たぶん彼の顔も見えるだろう。 そして揺は後ろを振り返った。 大きいスタンドだった。本当にここがいっぱいになるのだろうか。まだ開演まで1時間ほどある場内とくにスタンド席は人もまばらだった。 少しの不安を胸にパンフレットを眺めながら時間を過ごす。 「お一人ですか?」 横の席の女性にふと話しかけられた。 「あ、はい。」 「近くていい席ですよね。本当にラッキーだわ。」彼女は少し興奮していた。 「そうですね。ここならきっと顔もよく見えそうですね。」 話しかけてくれた女性は新潟から来た人だった。 その後もいろいろ話をした。彼の何の作品が好きかとか彼の好きな映画を観たとか。彼女の彼に対する熱い想いがヒシヒシと揺の胸に伝わってくる。あ~彼は本当に愛されているのだと揺は肌で感じていた。 もう開演まで10分くらいになった頃だっただろうか。揺はふとさっきまで人がまばらだったスタンド席に目をやった。すると一階席はもちろん二階席、三階席も端を除いてほぼ満席に近い状態になっていた。 それはもう圧巻としかいいようのない絵だった。 (あそこで彼を観たい・・・・) 「お話とっても楽しかったです。私ちょっと急用が出来たので失礼しますけど最後まで楽しんで帰ってくださいね。お気をつけて。」 不思議がる女性に背を向け揺は慌ててAブロックの特等席を後にした。 彼女が向かったのはスタンド席の入り口。 足早に入ってきた女性に声をかける。 「あの、私Aブロックのチケットなんですけど良かったら取り替えていただけませんか?」 「?」 「・・・・・・・・」 スタンド席からの光景はそれはすごいものだった。暗くなり始めた場内にブルーやグリーンのペンライトが光っていた。そして場内は彼のファンであろう人々で埋め尽くされていた。 彼はあのステージに出てきて何を思うのだろう。 あのステージにどんな思いで立とうとしているのだろう。 ここ数日間の彼のナーバスだった理由を今初めて身に染みて揺は感じていた。 ここに集まったすべての人が彼のすべてを注目しているのだ。 どれほどのプレッシャーと戦っているのか。揺は彼のことがとても心配になった。 さすがにその晩は寝付けなかった。 ふと、揺が別れ際に頬にしてくれたキスを思い出す。 それはいつものくちづけよりもひときわ温かく感じられた。とても大きな愛というか安心感というか・・・なんとも形容のしようのない感覚だった。 そして自分もおでこにお返しをした。そうしたかったから。その気持ちも説明の仕様のない感覚だった。やはりきっと揺と自分は似ているのかもしれない。そんなことを漠然と考えた。そして、彼女は言った。ありのままそのままの僕でいいと。迷っている僕を見せればいいのだと。そうだ。悩むことはない。もうすでに崔は投げられているのだ。「いくところまでいくしかない。大丈夫。スタッフを信じて。自分を信じて。」そう唱えると彼はベッドにもぐりこんだ。 揺が三階席の隅っこの席に座っていると一人の女性が慌てながらも少し回りの様子を伺いながら入ってきた。そして揺のひとつ離れた席に腰掛けた。そして感慨深そうにステージを眺めている。 そして突然揺に向かって 「Bブロックのチケットあるんですけどもし良かったらお譲りしましょうか」と言った。 「えっ、実は・・・・」 「ひゃひゃひゃ。同じように彼を遠くから眺めてみたいって思う人に出会えるなんてさすがビョンホン気が効いてるわ。」 揺が自分もA席を人に譲ってスタンド席に来たことを告白すると彼女はとても喜んでそう言った。 「あ、もう始まりますね。じゃ、じっくり彼を眺めましょう。」そういう彼女の眼はランランと輝いていた。 イベントは素晴らしいもので驚きあり、感動あり、笑いあり。飽きさせることなくプログラムが進んでいく。 そしてちょうど中ごろの質問コーナー。 画面に一人の男が映し出された。 「あ・・・・」それは帽子を拾ってくれた浮浪者のおじさんだった。 (何で場内にいるの) VTRが進み彼がカメラマンの質問に答えている。 「あ・・・・。もう。信じられない」 揺はすっかり彼に騙されたことに気がつき一人ゲラゲラと笑った。 全く開演前に変装して会場の周りをうろつくなんてどういう神経をしているのか。 「充分、楽しんでるね。ビョンホンssi」揺は何だかとても嬉しかった。 その後、彼がズームカメラで好みのタイプを探そうと言い出した。 「じゃ、三階からおねがいします。」と舞台のビョンホンが通訳の根本さんに告げた。 「んぐえっ!」揺は突然のことに動揺した。まさか私を探すわけではないだろうけどあんなにUPで映されたら恥ずかしくって仕方ない。 揺は持っていたキャップを目深にかぶりサングラスをかけてそっとパンフレットで顔を半分隠した。 「内緒で来てるんですか」隣の女性がゲラゲラ笑いながら尋ねた。 「ええ、まあ、そんなもんです。」 「じゃあ、ちょっと引いてパーンしてもらえますか」ビョンホンの声が響く。 そろそろ揺の辺りにカメラが回ってきた。 「あ、そこちょっと戻ってもらえますか~。そうそう。そこの・・・・マスクの人」 そうビョンホンが言った瞬間、揺はほっとしていた。 (とりあえず、難は逃れたわ。・・・あ~ドキドキした。気が付かれたかと思った) そんな出来事があったにせよイベントは感動の朗読劇と彼の『約束』の熱唱と続き大変な盛り上がりの中三時間の幕を閉じた。 彼の心遣いもあって三階席の揺の周りの人たちも充分にイベントに引き込まれて楽しんでいるように揺の目には映った。 「とってもいいイベントでしたね。予想以上でした。」ひとつ隣の席の彼女は興奮気味にそういった。そう、彼女はこの三階席の片隅で朗読劇を見て号泣し、歌を聞いては鼻水をすすっていた。 「ええ、とっても良かったです。私も感動しました。」揺も自分がかなり興奮していることに驚きを隠せなかった。 「あの・・・もし良かったらこれからビョンホンについて熱く語る会なんですけどご一緒にいかがですか?」 「ひぇ?」 数十分後、揺は先ほどの女性と一緒に水道橋の韓国料理店の入り口に到着していた。 「本当にいいんですか?急にお邪魔して。」 「ええ、いいんです。こんなことがあろうかと席はひとつ多めに予約してありますし。」 多少無謀ではあると思ったがちょっと自分と同じように良席を捨てて三階席を選んだこの女性に興味があって揺は名前も聞かぬままここまで付いてきていた。 「きっと楽しんでいただけると思いますよ。」彼女はそういうと店に入っていった。 揺も後を追う。 「実は待ち合わせをしている方にお会いするの初めてなんで顔がわからないんですよ。」 「?」 そんな中「ビョンホンについて熱く語る会」はとても盛り上がった。 揺を含めほとんどが初対面にもかかわらず。揺が聞くに彼女たちはブログ友達。日本全国にこうして彼について語り合っている人がどのくらいいることだろう。 「いやぁ~。ファンミって規模に関係ないですよね。」あやがちょっと興奮気味に言う。 「本当に。会場が大きくて彼が豆にしか見えなくても何だかすごく彼との距離が近く感じて・・いや、実に良かった。」揺を誘ったharuが熱く語る。 「朗読劇も歌もいや、声がすべてが最高だったわ。」 日頃クールなヒス・Tもだいぶ興奮している。 「そうそう、私もあの声に惚れたんですよね・・」rietも感慨深げだ。 「前のファンミのときより若返ってる気がする・・・」ヒス・T友人であるK子が言った。 「えっ?」食いつく人々。 「いや、前にビョンホンのファンミに行った時応援で来たソン・スンホンがすっごくカッコよくて私流れたんです。」 「信じられない・・・」(ちょっと罵声?) そこから彼の昔話からファンの男性遍歴、果ては会場で隣になったファニーなオバチャマの話まで会は大いに盛り上がる。 ここでの話は彼の話だけに留まらず果ては香港の映画の話まで広がりをみせ、揺はちょっとまた昼間のお食事会とは違った印象を持った。でもどちらにも共通していることは皆彼をとても愛して応援しているということだった。その想いを揺はファンとして今日めぐり合った人たちからヒシヒシと感じていた。 そして、彼のファンが決して彼だけを見つめているのではなくいろいろなものをみてそれでもなお且つ彼を絶賛してくれていることが嬉しくてたまらない揺だった。 楽しいひと時を終え、終電がギリギリだというharuに釣られて店を出る6人。 皆はJRだという。 揺はすこし風にも当たりたかったので後楽園から丸の内線で帰ることにした。 「あの、haruさんってハンドルネームですか?今日昼間よし子さんとおっしゃる方とご一緒したんですけど・・」 「えっ、じゃあ、私のパンフ買ってくださったの。揺さん?」 「ええ。」 「まあ、すごい偶然ですね。これは縁だわ。そうだ。是非私のブログに遊びにいらしてください。『わくわくバンジージャンプするっ!』っていうふざけたタイトルなんですけど。今度彼が主役の小説書こうと思ってて・・・そうだ「よう」ってどういう字ですか?」 「えっと・・・揺れるって書きます。」 「ふっふっふ・・すいません。お名前お借りしていいですか?」 「えっ、ええ。」よくことがわからない揺は適当に頷いた。 「良かった。じゃ、書けたらブログに載せますから読んで下さいね。まずい、終電間に合わないかもっ!」 「すいません。じゃ、皆さんお先に失礼します」haruは慌しく去り、揺は他の人々とも別れを告げた。そして一人ドームの前の道を歩いていた。 「何だかすごい一日だったわ・・・・」彼女の頭の中はいろいろなことでいっぱいだった。イベントでの感動はもちろん、彼のファンに時下に接してみて感じたことも多かった。この想いはどうすれば整理がつくのか・・・揺は自分の気持ちを持て余していた。 そんなとき携帯が鳴った。知らない番号だった。迷ったが出てみる。 「もしもし?」不安げな揺。 「あ、すいません。智です。番号ウナさんから教えてもらって。あの揺さん、ワンモ理事がアルバイトしませんかって」 「?」 |